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概要
ベシャンプ還元(Béchamp reduction)は、金属鉄と酸を用いて芳香族ニトロ化合物 (Ar–NO₂) を対応する芳香族アミン (Ar–NH₂) へと変換する還元反応である。1854年にフランスの化学者 Antoine Béchamp によって報告された古典的な反応であり、ニトロベンゼンからアニリンを製造する方法として、19 世紀の合成染料工業の発展に大きく貢献した。
代表的な反応条件は鉄粉と塩酸 (Fe/HCl) であるが、酢酸 (Fe/AcOH) や塩化アンモニウム (Fe/NH4Cl) などを組み合わせた条件も利用される。鉄は安価で入手しやすく、条件によっては他の官能基や二重結合を保持したままニトロ基を選択的に還元できるため、現代の有機合成化学においても有用な手法の一つである。
なお、スズと塩酸 (Sn/HCl) や塩化スズ(II) (SnCl2) などによるニトロ基の還元も広く知られており、高校の有機化学でも頻出の反応であるが、厳密にはこれらはベシャンプ還元とは区別される。ただし本稿では、高校化学での学習事項を踏まえ、まとめて紹介することとする。
開発の歴史
1854年、フランスの化学者 Béchamp によって発見された還元法。Béchamp はその他にもフェノールやアニリンの求電子的ヒ素化反応 (Bechamp reaction, Bechamp aniline, phenol arsonilation) も開発している。
高校有機化学でもおなじみのニトロベンゼンの還元
ベシャンプ還元の最も代表的な例が、ニトロベンゼンからアニリンへの変換である。
高校化学では、鉄ではなく主にスズと濃塩酸をニトロベンゼンに作用させ、続いて水酸化ナトリウム水溶液を加えることでアニリンを得る反応を学ぶ。
ここで注意したいのは、酸性条件下で生成したアニリンは、そのまま遊離アミン (分子型) として存在しない点である。アニリンは弱塩基性を示すため、十分に酸性の溶液中ではプロトン化され、アニリニウム塩として存在する。反応後に塩基を加える操作は、ニトロ基の還元ではなく、アニリニウム塩から遊離アニリンを得るための酸塩基反応である。
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ニトロベンゼンからアニリンへの変換は、形式的には以下の半反応式で表される。
Sn + 4HCl → SnCl4 + 4H+ + 4e– ………… (1)
C6H5NO2 + 6H+ + 6e– → C6H5NH2 + 2H2O ……………(2)
ニトロ基の窒素原子の酸化数は +3 であるのに対し、アミノ基では −3 となる。すなわち、ニトロ基からアミノ基への変換は 6 電子還元反応である。
半反応式(1)(2) を統合すると、以下のように表される。
2C6H5NO2 + 3Sn + 12HCl → 2C6H5NH2 + 3SnCl4 + 4H2O
鉄を用いる場合、電子は鉄の酸化によって供給される。酸はプロトン源として働くとともに、鉄表面や生成する鉄塩の状態にも影響を与える。実際の反応では鉄(II)塩、鉄(III)化合物、酸化鉄などが関与するため、鉄の酸化過程は必ずしも単純な一段階ではない。
(余談だが、筆者はこの 12HCl という滅多に見ない係数のおかげで本反応をよく覚えている)
スズの利用を学習することが多いものの、工業的には鉄を用いることが多い。スズは鉄より高価であり、化学量論量の還元剤を必要とするため、大量生産には不利である。また、生成するスズ塩の廃棄物処理や製品への残留も問題となる。一方、鉄を用いるベシャンプ還元は安価な還元剤を利用できることから工業化に適している。しかし、大規模なアニリン製造では廃棄物の少ない接触水素化法が主流である。
反応機構
芳香族ニトロ化合物の還元は、一般にニトロソ体 (Ar–NO) およびヒドロキシルアミン体 (Ar–NHOH) を経由する段階的な過程として説明される。
まず、ニトロ基が 2 電子還元されてニトロソ体が生成する。続いて、ニトロソ体がさらに 2 電子還元されるとヒドロキシルアミン体となり、最後に N–O 結合の切断を伴う還元によってアミノ基へと変換される。
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それぞれの変換は形式的に 2 電子還元に相当し、全体で 6 電子還元となる。
ただし、これは反応の全体像を理解するための模式的な経路である。金属表面での電子移動、プロトン移動、鉄塩の関与などを含む実際の素反応機構は複雑であり、すべての中間体が上記の順序で遊離して生成するとは限らない。反応機構の詳細は還元剤や反応条件によっても異なる。
また、ニトロソ体とヒドロキシルアミン体が縮合すると、アゾキシ化合物 (Ar–N(O)=N–Ar) が生成する場合がある。さらに還元が進行すると、アゾ化合物 (Ar–N=N–Ar) やヒドラゾ化合物 (Ar–NH–NH–Ar) などへ変換される経路も知られている。したがって、還元条件が不適切な場合には、目的の芳香族アミンに加えて、これらの中間体や副生成物が得られる可能性がある。
なおこれらの反応機構は、アンモニアの工業的製法であるハーバー・ボッシュ法で有名なフリッツ・ハーバーによって提唱された。しかしながら、Béchamp 還元の詳細な反応機構は現在でも不明とされている (ただし反応が遅い場合、TLC などでも中間体が確認できる場合も見られるようである)。
実験例
Reduction of 4-Nitroacetophenone (PDF)
250 mLの 3つ口フラスコに 600 mLの 1,2-propylene glycol とエタノール (70 mL) 、4-nitroacetophenone (3.30 g, 20.0 mmol) と 還元鉄 (4.19 g, 75.0 mmol) を加える。反応混合物を 60℃ に熱し、濃塩酸 (15 mL) を滴下ロートを使って 30 分間かけて加える。その後、1 時間還流を行うと、鉄粉がほぼ溶解する。反応後、室温に戻し、水 (200 mL) が入った1000 mL Duran flask (撹拌子入) に溶液を注ぐ。撹拌を続けながら、2 M 水酸化ナトリウム (水酸化鉄の生成) を加え、pH 試験紙で確認しながら中和する。続いて、酢酸エチル (150 mL) を加え、15 分間撹拌する。抽出分離を行い、無水硫酸ナトリウムで乾燥、その後濾過、溶液を減圧留去し、粗生成物を得る。粗生成物は150 mLの水から再結晶し、対応する芳香族アミンを得る。
反応の特徴と適用範囲
ベシャンプ還元の大きな利点は、鉄が安価で入手容易なことに加え、芳香族ニトロ基に対して比較的高い化学選択性を示す点である。芳香族ニトロ化合物からアミンを得る方法としては、接触水素化(H2/Pd-Cなど)も広く利用される。しかし、分子内にアルケンやアルキン、ベンジル基などが存在する場合には、目的のニトロ基以外も反応する可能性が高い。一方、鉄を用いた還元では、適切な条件を選択することにより、これらの官能基を保持したままニトロ基を還元できる場合がある。このような化学選択性は、複数の官能基を有する医薬品中間体や複雑な芳香族化合物の合成において重要となる。
実験のコツ・テクニック
鉄は化学量論量以上を必要とすることが多く、反応後には鉄塩や酸化鉄、水酸化鉄などの廃棄物が生じる。また、鉄粉を使用する不均一反応であるため、撹拌効率や鉄表面の状態によって反応性が変わる点にも注意が必要である。鉄粉を用いる際は、酸化被膜を予め 2 M HCl などで処理し、さらにエタノールでの洗浄を繰り返して活性化してから反応に利用するなど、前処理が必要な場合もある。
1. 鉄粉の状態に注意する
鉄を用いる還元は不均一反応であり、鉄粉の粒径や表面状態、撹拌効率によって反応速度が変化する。長期間保存された鉄粉では表面が酸化されている場合があり、反応の進行が遅くなることがある。必要に応じて、鉄の活性化や反応条件の見直しを検討する。また、鉄粉は粒子径によって危険物第 2 類 (可燃性固体) となる場合もあり、粉塵爆発の恐れがあるため注意を要する。
2. 発熱と水素発生に注意する
鉄と酸の反応では発熱や水素ガスの発生が起こり得る。特に酸の添加時には急激な温度上昇に注意する。反応はドラフト内で実施し、十分な冷却・排気を確保するとともに、密閉系や着火源を避ける必要がある。
3. 鉄由来の沈殿を適切に除去する
反応後の中和操作では、酸化鉄や水酸化鉄を含む沈殿が生成することが多い。これらは微細な粒子となり、ろ過を困難にしたり、抽出時にエマルションを形成したりする場合がある。適切なろ過補助剤 (セライト®など) を用いたろ過や、撹拌・抽出操作の工夫が有効である。やや強烈ではあるが、生成物が酸に強い場合は濃塩酸を過剰量加え数時間攪拌して鉄化合物自体を溶解するなどの処理もできる。
4. 反応条件に応じて後処理を選択する
強酸性条件では、生成した芳香族アミンがプロトン化されて水層に存在する場合がある。そのため、有機溶媒で抽出する際には、必要に応じて塩基性に調整して遊離アミンへ戻す。一方、Fe/NH4Cl などの比較的穏和な条件では、強塩基による中和を必要としない場合もある。
他のニトロ基還元法との比較
芳香族ニトロ基の還元には、ベシャンプ還元以外にも多くの方法が知られている。実際の合成では、基質の官能基、反応スケール、後処理の容易さなどを考慮して還元法を選択する。
| 還元条件 | 主な特徴・注意点 |
|---|---|
| Fe/HCl (べシャンプ還元) | 古典的条件。安価だが、強酸性条件や鉄塩の後処理に注意。 |
| Fe/AcOH | 酢酸を用いる条件。強酸に弱い基質で検討候補となる。 |
| Fe/NH4Cl | 比較的穏和な条件。近年の有機合成でも広く利用される。 |
| Sn/HCl、SnCl2 | 古典的な還元法。スズ由来廃棄物や強酸性条件が問題になる場合がある。 |
| H2/Pd-C | 接触水素化。金属廃棄物を抑えやすい一方、他の官能基の還元や水素の取扱いに注意。 |
| NH2NH2˚H2O/Os-C | オスミウムを活性炭に担持し毒性を抑えた条件で、水素フリーで行える。過剰量のヒドラジン水和物を使うのが難点か。 |
特に Fe/NH4Cl 条件は、強酸を用いずに芳香族ニトロ基を還元できることから、医薬品合成などでもしばしば使用される。2023 年のJournal of Chemical Education 誌 (https://doi.org/10.1021/acs.jchemed.3c00283) では、従来の教育で頻繁に扱われる Sn/HCl と、実際の研究で広く利用される Fe/NH4Cl や H2/Pd-C との違いが指摘されている。
しかし、これらの方法の優劣は一概には決まらない。鉄を用いる反応でも、基質や条件によってはカルボニル基などに副反応が起こる可能性があり、個々の基質について適切な条件検討が必要である。
基本文献・参考文献
- Béchamp, A. J. Ann. Chim. Phys. 1854, 42, 186–196.
- Campbell, C. D.; Stewart, M. I. “Reflections on the Teaching Practices for the Reduction of Nitroarenes: Updating Methodologies and Considerations of the Mechanism.” J. Chem. Educ. 2023, 100, 3171–3178. DOI: 10.1021/acs.jchemed.3c00283
- Liu, Y.; Lu, Y.; Prashad, M.; Repič, O.; Blacklock, T. J. “A Practical and Chemoselective Reduction of Nitroarenes to Anilines Using Activated Iron.” Adv. Synth. Catal. 2005, 347, 217–219. DOI: 10.1002/adsc.200404236
- 上仲 博「アニリン製造技術の進歩について」有機合成化学協会誌 1976, 34, 758–764. DOI: 10.5059/yukigoseikyokaishi.34.758
関連書籍
外部リンク
- BechampReduction – Wikipedia
- Reduction of Nitro Compounds – Wikipedia
- マスケットの大学化学
- オスミウム活性炭素 –ニトロ基選択的還元触媒– (ケムステ記事)
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